設計者Course Designer

佐藤 儀一

佐藤 儀一 Giichi Sato

広島県福山市柳津町生まれ(明治32年)。16歳でハワイに渡りハイスクール卒業後に、カリフォルニア大学に入学。大学3年の時にプロのジミー・ダンカンに誘われゴルフを始める。全米パブリックリンク選手権優勝、全米ゴールドメダル選手権4連覇など大活躍、100以上のタイトルを獲得した。

略 歴

明治32年(1899) 6月13日、広島県福山市柳津町生まれ
松永高等小学校卒業
大正4年(1915) 16歳でハワイへ渡っていた両親の元に赴く
現地のイオラニ・ハイスクールに入学
8年(1919) 20歳のときに帰国する両親とは別に単身渡米
カリフォルニア大美術科に留学
12年(1923) 同大学卒業後、カニや生糸を扱う小野貿易(株) (本社・横浜)サンフランシスコ支店に入社
※米国滞在期間中の主な戦績は次の通り
サンフランシスコ・アマ選手権3回優勝(1931〜)
サクラメントフェア選手権3回優勝(加州NO1)
全米都市対抗にサンフランシスコ代表で7年連続出場
全米ゴールドメダル選手権4回優勝(3連覇での金杯獲得)ロサンゼルス・オープンでベスト・アマ
昭和6年(1931) 米国遠征した宮本留吉・安田幸吉・浅見緑蔵の3プロと一緒にトーナメントに出場
9年(1934) 35歳で帰国し、神戸のポーランド領事館に就職。広野ゴルフ倶楽部に入会
10年(1935) 広野GC倶楽部チャンピオン(以降、通算12回)
関西アマ優勝(以降、通算8回)
広野GCアマ・コースレコード73達成
11年(1936) 日本アマ初制覇(以降3年連続、通算4回)
広野GCアマ・コースレコード70達成
12年(1937) 日本アマ2連覇
13年(1938) 日本アマ3連覇
14年(1939) 日本アマ決勝で初の敗北
16年(1941) 日本アマV4を達成、戦前アマでは最高の成績
25年(1550) 関西アマ8回目の優勝
30年(1955) コース設計家に転身
※改造コースも含め23クラブのコースを設計
33年(1958) 関西シニア初制覇(以降、3連覇)
42年(1967) 7月2日、病気のため68歳で死去

設計コース

  • 広島ゴルフ倶楽部 鈴ヶ峰コース(広島県 広島市)
  • 片山津ゴルフ倶楽部 片山津ゴルフ場(石川県 加賀市)白山コース・日本海コース
  • 城陽カントリー倶楽部(京都府 城陽市)
  • ゴルフクラブ四条畷(大阪府 四條畷市)
  • 田辺カントリー倶楽部(京都府 京田辺市)
  • 玉野ゴルフ倶楽部(岡山県 玉野市)
  • 東海カントリークラブ(愛知県豊川市)
  • 宝塚クラシックゴルフ倶楽部(兵庫県 宝塚市)
  • 志度カントリークラブ(香川県 さぬき市)
  • 東名古屋カントリークラブ(愛知県 豊田市)
  • 鳴門カントリークラブ(徳島県 鳴門市)
  • 和歌山カントリー倶楽部(和歌山県 和歌山市) 他